人間関係の悩みを楽にするアドラー心理学の少し意外な考え方。アドラーの勇気づけとは?半分無料公開中!

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人間関係の悩みを楽にするアドラー心理学の少し意外な考え方。アドラーの勇気づけとは?


Contents

まえがき

アドラー心理学という言葉を、最近よく耳にするようになりました。オーストリア出身の精神科医であり心理学者でもある、アルフレッド・アドラーによって創始された心理学です。日本で心理学というと、どうしても箱庭療法や夢分析で有名なユングのイメージが先立ちます。また、ユングの師であり精神分析の祖でもあるフロイトの名もかなり広く知られていますが、アドラーは今までほとんど取り上げられることはありませんでした。しかし世界では、アドラーはユング、フロイトと並ぶ著名な心理学者として、その名を知られています。
このところの日本でのアドラー心理学の火付け役となったのは、おそらく『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健)という一冊の本ではないでしょうか。この本では、ちょっと偏屈な「青年」が、「哲人」とのやりとりを通して少しずつアドラー心理学を知ってゆき、やがて「変わる勇気」を持つに至るまでの過程が描かれています。このようなストーリーやタイトルは、現実を変えることができずに悩んでいたり、人間関係に傷つき疲れ果てていたりする多くの現代人の心を揺さぶり、また同時に勇気づけることでしょう。
ところで、先ほどから「勇気」という言葉が何回か登場したことにお気づきでしょうか。実はアドラー心理学という呼び方がされているのは日本だけで、世界的には個人心理学(Individual Psychology)という呼び方のほうが主流です。その名のとおり、個人がどう生きるかについて徹底的に考えられた心理学です。そして、個人がより良く生きるために、「勇気づけ」(Encouragement)というアプローチが行われます。そのため、アドラー心理学は、ときに勇気の心理学とも言われるのです。
本書は、この勇気づけを主軸に据えて、あなたが人生を少しでも楽に生きられるように変わることを目的として書かれたものです。誤解しないでほしいのですが、アドラー心理学で言うところの勇気づけとは、決して勇気づけるとか褒める、励ますとかいう意味ではありません。それどころか、アドラーの考え方はちょっとクセがあるので、意地悪だ、辛らつだと感じる人も少なくないでしょう。つまり何が言いたいかというと、アドラー心理学は決してあなたを優しく励ましてくれる代物ではないということです。
これから筆者は各章を通して、アドラーの考えを紹介するとともに、あなたに一つずつ勇気を必要とする課題を投げかけます。おそらくそれは、あなた自身が今現在抱えている課題とも通じる部分があるでしょう。自分の課題に自分で向き合い、自分の力で解決できるように促すこと、これこそが「勇気づけ」なのです。
さて、あなたは、より良い人生を送るために変わる勇気はありますか?


目次

その選択、誰の責任?
「なぜ」よりも「何の為に」
すべての悩みは人間関係にある
人はみな色眼鏡をかけて生きている
他人に干渉しない・されない
五つの勇気のおさらい
みんなあなたの仲間
関心を外へ向ける
プラスのループを組み立てよう
おまけ~ちょっと楽になるために~


その選択、誰の責任?

アドラー心理学が本来は個人心理学(Individual Psychology)と呼ばれていることは、先ほど少しだけ紹介しました。アドラー自身、個人心理学と呼んでいたといいます。それでは、「個人」とは何でしょうか。広辞苑によると、個人とは「国家または社会集団に対して、それを構成する個々別々の人。単一の人。一個人。私人。」と定義されています。つまり個人とは、人間を表す最小単位として用いられる言葉なのです。
この個人という単位を、さらに小さな単位に分割しようとすると、どうなるでしょうか。この問いに一つの答えを出したのが、お馴染みのジークムント・フロイトです。フロイトは、個人を「意識」と「無意識」に分割して考えました。意識とは、自分はこういう人間だ、今こういう気持ちだと、自分で認識できる部分。対して無意識とは、深層に眠っている、自分自身も気づいていない抑圧された部分です。そして、この抑圧された無意識が俗に言う“心の病気”の犯人であると考え、無意識にアプローチする技法を考え出しました。それが、精神分析です。
これに対してアドラーは、個人は分割されない一つの存在であると考えました。意識と無意識、心と体、理性と本能、それらはすべて対立も矛盾もするものではなく、みんな一つの目的に向かって協力し合っているというのです。これを、全体論(Holism)といいます。アドラーはこの理論を、車を例に出して説明しています。アクセルとブレーキはそれぞれ反対の動作をしますが、互いに矛盾する存在ではありません。どちらも車の運転を調節するという目的のもとに備え付けられたものです。そして、車はアクセルという機能とブレーキという機能の二つに分割されるものでもありません。
ここで一つ注意しておきたいのは、アドラーは決して無意識の存在を否定しているというわけではありません。「無意識に○○してしまった」ということを、私たちはよく「意識に反して」というニュアンスを含めて言うことがありますが、そうではなく、意識でも無意識でも、そうすることを個人が選択した上で行っているというのです。
あなたが“ついカッとなって”誰かを殴ってしまったとき。禁煙すると決めたはずなのに、“気がついたら”いつものように一服していたとき。“知らず知らずのうちに”怠けていたとき。“ついうっかり”約束を破ってしまったとき。全体論を受け入れるなら、こういうときに無意識のせいにすることは、もうできません。意識していようがしていまいが、あなたは自らの手で、殴ることを、タバコを吸うことを、怠けることを、約束を破ることを選択したのです。あなたの選択は、他の誰でもない、あなたの責任です。

【一つ目の勇気】 あなたの問題はあなた自身が選択したものだということを認める。


「なぜ」よりも「何の為に」

「〇〇がトラウマで△△できない」というセリフを、よく耳にします。あなたも一度は言ったことがあるのではないでしょうか。本来の意味であれば、トラウマとは心的外傷(psychological trauma)と言われ、フラッシュバックを伴いひどい苦しみを経験するものですが、近年ではもっと軽い意味で使われがちです。ここまで広く普及した理由の一つとしては、冒頭のセリフからもわかるとおり、言い訳として使いやすいという点が大いにあるでしょう。
しかしアドラーはトラウマを否定し、個人の行動は過去の要因ではなく目的によって決定づけられるという、目的論(Teleology)を唱えました。あなたが今本書を読んでいるのも、変わりたい、楽になりたい、知的好奇心を満たしたいなど、何かしら目的が先にあり、その目的を達成するために本書を読むという行動を選択しているというわけです。もちろん、ポジティブな目的だけではありません。人によっては、流行に便乗してアドラー本を出す筆者を完膚なきまでに叩いてやろうという目的のもと、本を手に取ったという場合もあるかもしれません。
いずれにせよ、あなたは過去の要因など関係なく、個人の持つ目的のために本書を読んでいます。このような単純な行動に焦点を当てるのであれば、目的論は比較的受け入れやすい理論ではないかと思います。
では、トラウマを否定するという点においてはどうでしょう。本当にトラウマに苦しんでいる人、たとえば、犯罪被害に遭ったことのある人が、外を歩くときに強烈なフラッシュバックに襲われるため、まったく外出できなくなったとしましょう。このようなケースでは、一見するとこの人は過去の要因によって外出できなくなったと思われがちです。しかし目的論で見たとき、やはりこの人は、目的によって行動を決定しているのです。つまり、この人は「人から傷つけられるという恐怖をもう二度と体験しない」という目的のために、外に出ないという行動を選択しているのです。
こう説明すると、「出ないんじゃなくて出られないんだ!現にこの人は強いフラッシュバックという症状に苦しんでいるじゃないか!」という反論もあるでしょう。しかし、そこは全体論を思い出してみてください。個人は分割されない、自分の意図しないところで起こす行動もまた、自分で選択した結果なのです。つまりこの人を苦しめるフラッシュバックですら、人に傷つけられることのないよう外に出ないという目的のために起こっているというわけです。このようにアドラー心理学では、不適応行動は何かしらの目的を果たすために生じていると考えます。
ちょっと意地悪な理論のように聞こえるでしょうか。確かに、過去の要因にしてしまえば楽なことは多いでしょう。しかし、過去を変えることは誰にもできません。もしあなたがそのまま今ある問題を過去のせいにしているのならば、おそらくその問題は、それこそ専門的な精神分析等の治療を受けでもしない限り、解決されることはないでしょう。しかし、今の問題が目的のために選択されているものだとしたら?過去と違って、目的は変更可能です。つまり、今ある問題もまた、あなた自身の力で解決することが可能なのです。

【二つ目の勇気】 あなたの問題は過去のせいで生じているのではなく、目的のために生じていることを認める。


すべての悩みは人間関係にある

人間は社会的動物です。アリやハチと同じように、他の個体と集まって群れを作り、その中に社会を築き、それぞれの役割を果たしながら共同生活を送っていきます。アドラーはこの点に着目し、人間の抱える問題はすべて人間関係に起因するものだと考えました。これを、社会統合論(Social Embeddedness)といいます。
「そんなことはない!」と、あなたは反論するかもしれません。たとえば、あなたは自分がひどく太っていることを悩んでいるとします。確かにその悩みは、人間関係ではなく個人的な悩みのようにも思えます。では、「太った自分は醜い、みっともない」というその美意識は、何を基準にしているのでしょうか。おそらくは、ハリウッドスター、スーパーモデル、好きなアイドルやタレント、クラスの人気者が基準になっているのではないでしょうか。
いずれも、あなたの周りの人間や、社会の基準によって作られた美意識です。アフリカには、太っている人ほど美しいという美意識を持っている国も少なくありません。また、平安時代の美人は一重まぶたの下ぶくれだったとも言います。一見個人的な問題のように思える美意識の問題ですら、今あなたのいる社会や周りの人間関係から離れれば解決するのです。
さて、ここでもう一つアドラーの思想を紹介したいと思います。コンプレックスについてです。これもトラウマと同じように、本来とは少し違った意味で広く知られるようになりました。今の私たちにとっては、コンプレックスとはそのまま劣等感という意味を指すことが多いと思います。しかしアドラー心理学では、劣等感とコンプレックスを明確に区別しています。
そもそも劣等感(inferiority feeling)とは、実際に劣っていることを指す言葉ではありません。主観的に劣っていると感じること、つまりあなたが勝手に劣っていると思い込んでいることです。たとえば、あなたが自分の学歴の低さや能力のなさに劣等感を持っていたとしましょう。しかし、あなたが平常の知能や五体満足な体を持っている限り、それはあなたが勝手に自分と他人を比べて劣っていると感じているに過ぎません。一方で、実際に知的障害や身体疾患を持っている場合、言葉は悪いですが、客観的に劣っている部分がある場合、それは劣等感ではなく劣等性(器質性劣等性;organ inferiority)と呼ばれます。そして、劣等性はないのに劣等感を理由にして本来やるべきことから逃げてしまうことを、劣等感コンプレックス(inferiority complex)といいます。知的障害でもないのに「能力が低いことがコンプレックスで働けない」というあなたは、劣等感を利用して労働という課題から逃げているのです。目的論で言うところの、働きたくないから劣等感に縛られているという状態でもあります。
そしてここでもやはり、人間関係がかかわってきます。あなたが劣等感を持っているとき、そこには必ず他者の存在があるのです。客観的に劣ってはいないのに、なぜ主観的に劣っていると感じるのか。それは、あなたが周りの他者と自分と比べているからです。先ほどの美意識の例と同じように、今いる社会を出てまったく違う社会に移るか、山にでもこもって人間関係を絶ちさえすれば、たちまちあなたは今ある劣等感から解放されることでしょう。しかし、そう簡単に未知の国に行けるわけでもなければ、仙人になることもできません。まずは、人と自分を比べるのをやめることです。この競争社会の中で、そう簡単にできないことは重々承知です。気に食わない相手は言い負かしてやりたいし、競争から降りることが負けを認めたことのように感じる人も多いでしょう。しかし、いったんそれを決断すれば、あなたの人生が今よりもっと楽になることは間違いありません。

【三つめの勇気】 人と競争することをやめる。


人はみな色眼鏡をかけて生きている

劣等感のところで少し触れましたが、人間は主観で生きています。客観的に劣っていないのに劣っていると思ったり、逆に客観的にまったく優れていなくても、まるで神様のようにふるまったりする人もいます。劣っている、優れているというのも、主観によって生まれる感覚なのです。
たとえば、もしもあなたが会社の同僚に挨拶をして、挨拶を返してもらえなかったら、どう思うでしょう。失礼な奴だと怒りますか?何か怒らせることをしてしまったのだろうかと不安に感じますか?それとも、聞こえなかったのかしらと思って気にしませんか?どう受け取るかは、人によって千差万別です。このように、個人によるものごとの捉え方や行動の傾向を、ライフスタイルと呼びます。
ポジティブなライフスタイルを持っている人と、ネガティブなライフスタイルを持っている人では、おそらく世界はまったく違って見えることでしょう。言いかえれば、この世界を作っているのはあなた自身なのです。もしもあなたの世界がただただ辛いものでしかないのなら、まずは自分のライフスタイルを見直してみましょう。これをライフスタイル分析(Lifestyle Analysis)と呼び、実際のアドラー心理学のセラピーでは、この作業を必要に応じて行うことになります。
本書はセラピー本ではないので、ここで本格的なライフスタイル分析を勧めるようなことはしませんが、簡単にでもいいので自分のライフスタイルを振り返ってみてください。先述したように、アドラー心理学ではすべての問題は人間関係にあると考えます。ですので、今現在あなたが選択している問題は、あなたが人間関係においてどんな考え方をしているのかに深くかかわってきます。
たとえば、いじめがトラウマで引きこもっているというあなたは、人間関係を避けるという目的のために引きこもっています。では、周囲の人間に対してどんな考え方を持っているのでしょう。おそらくだいたいの場合は、「どうせバカにされる」「いつも嫌われる」「誰からもわかってもらえない」といったところでしょう。これがあなたのライフスタイルです。しかし、本当にいつも誰からもバカにされるということがあるでしょうか。十人十色という言葉があるように、人はみんなそれぞれ違った色の色眼鏡をかけて生きています。すべての色から見てバカにされるような人に、筆者は今まで会ったことがありません。というのも、人をバカにするということ自体まったくしない人間が、意外と多い割合で存在するからです。こういうライフスタイルを持った人は、あなたをバカにすることはまずありません。
極端に偏ったライフスタイルがあるならば、広い視野でもって修正していくべきです。もちろん、すぐに修正することは無理でしょう。あなたは今までの人生をずっとそのライフスタイルを持って生きてきたからです。しかし今のライフスタイルを変えない限り、あなたは今持っている問題をずっと選択し続けるでしょう。なにも、いきなり変えろとは言いません。変わるために、まず自分の課題というものをはっきりさせることから始めましょう。自分の課題と向き合うのは大変なことだし、何より勇気がいります。しかし課題と向き合わなければ、何も変えることはできません。逆に言えば、向き合う勇気さえあれば、世界を変えることはできるのです。

【四つ目の勇気】 自分のライフスタイルを振り返り、課題と向き合う。


他人に干渉しない・されない

さて、自分の課題がわかったら、次に何をしなければならないか。それは、自分の課題と他人の課題とを切り離すことです。あなたが今自分の人生を生きられていないと感じるのなら、それは他人の課題まで背負っているか、あるいは自分の課題なのに他人から干渉されているかのどちらかです。
ここでもう一度、ライフスタイルのところで挙げた例を見ていきましょう。あなたは、「いつも誰からもバカにされる」という偏ったライフスタイルを持っています。このようなライフスタイルによって苦しんでいること、それを認めて新しいライフスタイルに変えることが、あなたの課題です。
筆者は、本当に誰もがあなたをバカにするわけではないと説明しました。しかし中には、実際あなたをバカにする人もいることでしょう。このとき当然あなたは傷つきます。バカにされて傷つくのは、あなたの課題です。しかし、あなたをバカにするのは、バカにしてくるその人の課題であって、あなたの課題ではありません。つまりこのときあなたが取り組むべき課題は、バカにされても傷つかないようになることであり、バカにされなくなることではないのです。
嫌われる、わかってもらえないという思いに関しても同様です。あなたを嫌うのも、あなたのことをわかってくれないのも、あなたの課題ではありません。相手の課題です。それを気に病んだところで、いったい何が変わるのでしょう。あなた自身は変わることはできても、相手を変えることはできないのです。あなた自身が変われば、たとえ相手があなたをバカにし続けても、嫌い続けても、一生わかってくれなくても、何の問題もありません。あなたは傷つかずに済むし、引きこもる必要もありません。
このように課題の分離ができないケースは、近年親子関係において特に多く見られます。いわゆるモンスターペアレントも、その一例です。彼らは子どもや教師と自分との課題をしっかり分けることができていないため、子どもの課題を自分の課題としていちいち学校にクレームを入れたり攻撃をしたりするのです。クラスの授業が遅れているのは、教師の課題です。授業の遅れに対してどう対応するのかは、子どもの課題です。どちらも、親の課題ではありません。親の課題は、子どもが自分の課題を自分で解決できるようサポートすることです。つまり、「勇気づけ」です。課題を切り離すとは、決して突き放すことではありません。切り離した相手があなたにとって大切な人であるならばなおさら、自分の力で課題を解決できるように、勇気づけてあげてください。
反対に、あなたの課題であるのに他人に干渉されることもまた、あってはならないことです。たとえば芸能人の洗脳騒動をよく耳にしますが、あれは自分の課題を占い師や宗教の教祖に侵害された結果だと言えるでしょう。本来あなたが決めること、解決することであるはずなのに、ああしなさい、こうしなさいと干渉され続けた結果、その相手に人生を操作されてしまったのです。確かに、善意の忠告には耳を貸さねばなりません。しかしそれを受けてどうするかは、あなたの課題なのです。いつでも、決断するのはあなた自身でなければなりません。人の評価を気にしたり、言うことを真に受けたりしているうちは、あなたは自分の人生を生きられていないも同然なのです。

【五つ目の勇気】 自分の課題と他人の課題と切り離す。


五つの勇気のおさらい

これまで、あなたの人生を少しでも楽な方向に変えるために、五つの勇気を持つことを提案してきました。
一つ目は、あなたの問題はあなた自身が選択したものだということを認める勇気。特に「無意識に」とか「そんなつもりはなかったんだけど」という言葉を普段から使う人は、今ある問題を自分の知らない一面のせいにするのではなくて、一個人として自分が選択した結果だということを認めてください。“わかっちゃいるけどやめられない”とはよく言ったものですが、やめられないのではなく、最初からやめる気などないのです。
二つ目は、あなたの問題は過去のせいで生じているのではなく、目的のために生じていることを認める勇気。あなたが選択している問題は、過去の辛いできごとのせいで選択されているのではありません。すべて目的があって、その目的を果たすためにあなたが選択したものなのです。時にその目的は、あなたの醜く弱い一面を浮き彫りにするかもしれません。それでも、決して変えられない過去に要因を見出すのではなく、変更可能な目的というものに着目することによって、あなたは今の状況を変えることができるのです。
三つ目は、人と競争することをやめる勇気。社会的動物はいつでも、他者との競争の中に生きています。魚ですらカーストを作り、弱い相手を集団でいじめたりするのです。競争をやめることで、相手はあなたに勝ったと思い、あなたは相手に負けることがどうしても許せないかもしれません。それでも、競争をやめれば、あなたは劣等感や劣等コンプレックスから解放され、自由になれるのです。
四つ目は、自分のライフスタイルを振り返り、課題と向き合う勇気。長年培ってきたライフスタイルは、なかなか変えることはできません。しかしライフスタイルを変えるということは、言いかえればあなた自身が変わることができるということです。まずはライフスタイルを振り返って、自分の課題としっかり向き合ってみましょう。
五つ目は、自分の課題と他人の課題を切り離す勇気。あなたが変えることができるのはあなただけであって、他人まで変えることはできません。他人があなたをどう評価しようが、それは他人の課題であり、あなたには関係のないことです。ただ、もしも相手が大切な人であり、その人自身があなたの助けを必要としているのならば、勇気づけを行ってください。くれぐれも、その人の課題を自分の課題として背負い込まないように。逆もまた然りです。

アドラーは他にも多くのことを語っていますが、筆者個人の意見としては、まずはこの五つの勇気を持つことで構わないと思っています。というのも、アドラー心理学は確かに自分を変える心理学と言われていますが、同時に、本当にアドラー心理学を極めて生き方を変えるには、今まで生きてきた歳月の半分の時間が必要だとも言われているからです。つまり、今あなたが三十歳だとすると、あなたが本当にアドラー心理学を理解できるのは四十五歳ということになります。
しかし本書の目的は、あくまであなたを勇気づけることにあります。そのためにアドラー心理学の概念を用いてはいますが、アドラーの考えを百パーセント理解することは求めていません。(もちろん、本書をきっかけにアドラー心理学について極めようと思えたのなら、ぜひそうしてみてください。どうするか決めるのはあなた自身です。)大まかなところを理解してもらい、あなたが人生を変える勇気を持つきっかけになれば、それで本書の目的はほぼ達成されているわけです。
とはいえ、アドラー心理学についてご紹介しているからには、アドラーが目指した究極のゴールにも、少しは触れておかなければならないでしょう。ここから先は、アドラー心理学の中でも上級編の考え方になってきます。筆者自身、まだ達成できていません。というよりも、これから先も達成できる自信は正直ありませんし、単に楽に生きることを目的とするならば、なにもここまで目指す必要はないのではないかとすら考えています。
それでも究極のゴールを目指したいという勇気あるあなたは、どうぞそれに向かって自分を変革していってください。
みんなあなたの仲間

人間関係に傷つき、この社会で生きづらいと感じている人にとって、周りの人間はみんな敵であるかのように映っているかもしれません。事実、すべての問題が人間関係から生じるのだとすれば、他者というのはあなたを苦しめている元凶だという考え方もできるでしょう。しかしアドラーは、人間はみな平等であり、仲間であると説きました。人間だけではありません。この世にあるものはすべて一つの共同体の一部であり、何か一つが中心ということはないのです。そして共同体の一部である私たちは、自分個人の利益や幸せではなく、共同体全体の利益や幸せに貢献しなくてはなりません。これを共同体感覚(social interest)と言います。
こう言われてもピンと来ない人も多いでしょう。たとえば「国」というのは、そこで生まれた人々やそこに住む人々によって構成され、そこで同じ社会を共有し合っている、一つの共同体です。日本国民であれば、誰もが日本という国を構成する一部であり、誰か特定の人を中心として国が成り立っているわけではありません。総理大臣や天皇が中心だと言う人もいるかもしれませんが、国民がいなければ総理大臣という職は成り立ちませんし、総理大臣もまた国民の一人です。天皇も同様です。国民あってこその国であり、国あってこその天皇なのです。このような点で、私たち国民一人ひとりは、みんな平等だというのです。
これは、共同体の規模が変わっても同じことです。家族でも、学校でも、市町村でも、誰もが共同体の一部です。もっと大きな規模で考えてみれば、地球だって宇宙という共同体の一部ですし、そう考えると地球という共同体の一部である私たち一人ひとりは、宇宙という共同体の一部でもあるわけです。
随分とスケールの大きな話になってしまいましたが、この共同体感覚を養うことが、アドラー心理学の目指す究極のゴールです。自分も他者も同じ共同体の一部であることを自覚し、自分ひとりのためでなく、共同体全体への貢献を幸せとすること。それが人間の本来ある幸せの形だというのです。
少し宗教めいた話に聞こえてしまうかもしれませんし、この手の思想が合わない人にとっては、なかなか受けつけない理論ではないかと思います。しかし、あくまでこれは心理学であり、社会論でもあるのです。前にも述べましたが、社会的動物である人間にとって、すべての悩みは人間関係であるというのがアドラー心理学の考え方です。それならば、他者と競争して勝つことよりも、同じ共同体の一部として助け合い、より良い共同体へと発展させていくことこそが、私たちにとって本来あるべき幸せの形なのではないでしょうか。
そのためには、まずは前に述べたとおり、競争を止めること。そしてさらにその先は、周りの人はみんな同じ共同体の一部であり、自分の仲間なのだと認め、信用することです。「冗談じゃない、信じて騙されたらバカみたいだし、自分が損するだけじゃないか!」という反論も、もっともな意見だと思います。それでも、信じる信じないは、あなたの課題。騙す騙さないは、他人の課題です。
とはいえ、決して自分が犠牲になって共同体に尽くせというわけではありません。たとえば、明らかに胡散臭いセールスを信用して大金を払い、その人の売り上げに貢献したというのは、間違った解釈です。あくまで自己犠牲はない状態で、しかし自分本位でなく他人のために貢献してください。ここで言うところの「他人を信じる」とは、人の持つ力を信じるということです。もっと突き詰めて言うと、その人が自分の力で自分の課題を解決できるということを信じるのです。あなたが干渉しなくても、勇気づけさえ行えば、その人は変わることができる。そういう信頼です。
人を手放しで信じるのは、とても怖いことでしょう。しかし忘れないでください、みんなあなたと同じ、共同体の一部であり、あなたの仲間なのです。

【六つ目の勇気】 人を信じる。


以上、ここまでで半分終了です。

本書でこのあとに書かれているのは

みんなあなたの仲間
関心を外へ向ける
プラスのループを組み立てよう
おまけ~ちょっと楽になるために~

となっております。

 


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